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1朝から長浜屋のトンコツらーめん
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2福岡市から北九州市→
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3関門海峡→山口県の下関
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4巌流島クルーズ
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5平家のお墓・赤間神宮
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6壇ノ浦の戦い
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7日本の歴史が動いた場所、下関戦争
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8最高のうどん!もりべえ
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9大鶴酒造の宮崎スティック・いぶりがっきー
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10八幡神社の総本山・宇佐神宮
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11鬼の伝説、八幡竈門神社
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12温泉の聖地、由布院
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13別府タワー
目次でございます。
本当にアッサリ。福岡のトンコツらーめん
それでは、福岡大分の3日目のレビューです。
( 福岡大分旅行1日目・福岡大分旅行2日目 ← 記事です )
3日目のダイジェスト動画はこちら
そうそう、キャナルシティ博多の予約した部屋のプランは「素泊まり」ですので朝ごはんはもちろん自分たちで食べに行かねばなりません。
本日の朝食は「とんこつラーメン」です。
私はラーメンはあまり好きではありませんでした。家で母親が作るラーメンもそうですし、外で食べる味噌ラーメンもイマイチに感じていました。
それが覆ったのが20代後半くらい。当時北区太平にあった「豚ソバFuji屋」の魚介系トンコツ味。ただしその後すすきのに移転したため終了(2023年現在、東区のオートバックス横に再移転。)。
その後、ヨドバシカメラ札幌店の横にひょっこり開店した「ばりきや」のトンコツが好きになりました。ただ原材料高騰のあおりで具材が1/3になってお値段が150円~200円アップとなってから食べてません。
えびそば「一幻」はまだ未体験。今度行ってみよう。
で、タモリ曰く「本場のとんこつラーメンはアッサリしているものなんだ。」と。
ばりきや好きな私としては「本場のトンコツ」はぜひとも味わってみたい。
中洲を超えて、
博多の中心地の天神エリアを突っ切って、
到着しました!
元祖長浜屋です。「家」の方の長浜家ではありませぬ。
入り口は黒いカーテンのところ。その横に食券自動販売機があるので食べたいヤツを買いましょう。
で、店舗に入るとこんな感じ。
初日のラーメン屋でも思いましたが
食欲減退(笑)
オレンジ色の机、コンクリートの床、ただ作業するだけの外国人店員、学校給食の器と同じ材質の湯呑。うーん苦手です。
ただ、コストパフォーマンスは今まで生きてきた中で最強ですね。アッパレです。麺が非常に多い。替え玉のチケットも購入していたのですがムリでした(笑)
で、タモリの言うことは正しかったです。
本当に朝からイケるくらいアッサリでした。逆に朝はコレでいいかもですが、昼と夜はばりきやの味になれている身としてはもう少し濃い旨味が恋しくなりました。
ごちそうさま。
巌流島・クルーズ、山口県は下関唐戸フェリー
さて、朝食を食べたら巌流島クルーズへ出発です。
急いで都市高速に飛び乗ります。
急ぐ理由はこちらです。
巌流島への船は2ヶ所あります。福岡県門司港(もじこう)と山口県下関唐戸(しものせきからと)
で、本日は平日なため門司港からのフェリーはありません。関門橋を渡って山口県に入らないとダメなんです。
で、旅行前に申請した九州の高速道路乗り放題パスは山口県には無効。福岡県で高速に入って山口県で降りた場合にいくら取られるかわかりません。よって、山口県に一番近いICである門司ICで一旦降りてからすぐ入り直すという方法を取ります。
ただ、唐戸フェリーの時刻表を見てみると1度逃すと待ち時間が結構発生してしまう。よってできる限り急ぎたい、というワケです。
高速道路の入り口までグイグイと坂を登ります。
天神北料金所。
福岡IC・香椎方面へ。
ここ、本当に怖いと思った。ラインがクロスして事故が発生しやすそう。
何度目かの博多タワー
国交断行したほうが良い船。
がんばろう、しろが待っている。
っていうか高速道路なのに渋滞。
北海道人にとっては衝撃的な映像。出口で混んでいるのは普通ですけど走行レーンで渋滞が発生しているのは不思議でたまりません。なんのための高速なんだ、と。
門司港ICを目指して走ります。古賀まで9km、若宮まで22km、山口県まで145km。
小倉南まで9km、北九州JCTまで14km、山口県まで109km。
トンネル手前の信号機。北海道では見たことがない。
門司ICまで2kmです。
以下の地図の下から門司料金所を出て、すぐさまUターンして入り直して上に向かいます。
※お金に糸目をつけないのであれば、突っ切ってしまっても構いません(笑)
で、しばらく走ると関門海峡です!!
海門橋を渡って、高速を降ります。
降りてしばらく走ると下関港方面に曲がります。左折です。
下関の唐戸フェリーターミナルに到着~。ギリギリ間に合いました。
船の切符を買いましょう。唐戸ターミナル内へ。
切符購入は自動販売機スタイル。往復900円。
巌流島行き、大人往復乗車券(by関門汽船㈱)
船に乗るのは15年ぶりくらい。ワクワクです。
座席から見た唐戸フェリー
9:45 出港しました。
船内にはアナウンスで巌流島にまつわる話が流れています。現在は無人島でしたが過去は人が住んでいたとか。
海上から見る関門橋。
しばしの船旅を楽しみます。
(行きは船内、帰りはデッキで潮風を浴びました。夏なら気持ちいいんでしょうが福岡3月の海上は寒いです・・・。)
巌流島が見えました。
10:00 到着!!
ようこそ巌流島へ。
島周辺の海の色はグリーンっぽく見えます。
フェリーの中のアナウンスでも説明しておりましたが、埋め立て前の巌流島(別名:舟島)の大きさは17,000平方メートル。
で、現在は埋め立てられて5倍の大きさに(103,000平方メートル)東京ドームが46,755平方メートルなのでドームの2倍の敷地面積。
坂本龍馬とお龍が巌流島に来たらしい。
島から見た関門海峡と、
船型のモニュメント。
小次郎の横薙ぎをジャンプでかわす宮本武蔵の絵かしら?燕返し?
※90年代のヒットゲーム「サムライスピリッツ」の橘右京
記念植樹。ライオンズクラブ国際協会336-D 地区7R1Z
下関ライオンズクラブ。
小さい丘に銅像2つを発見。
左側:佐々木小次郎
右側:宮本武蔵
武蔵のポージングがなかなか躍動感があります。
ここは自然の浜ではなく、埋立後の浜になります。その場所にポツンと船が置かれています。
巌流島 決闘の地プレート。
古代伝説(こだいでんせつ)
本州と九州の間は陸続きでその下に潮の流れる穴があったが、長年の浸蝕と地殻変動によりいつの時代にか陥没、その流れが土壌が舟島となったと平田篤胤(ひらたあつたね)説を公表、それまでは本居宣長(もとおりのりなが)の「古事記伝」(1798年)に書いた「土壌が流れて引島に」や大同小異の伝説があった。島名は、下関側で「舟島(現在は船島)」、小倉側で「向島」と、それぞれ違った呼び方が受け継がれることになる。「巌流島」とは佐々木小次郎の流派が「巌流」または佐々木小次郎が自身の名として「巌流」を名乗っていたなどの諸説あり。
慶長(ケイチョウ)8年(1603年)江戸幕府がスタート
慶長(ケイチョウ)17年(1612年)4月13日 宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘
嘉永(カエイ)2年(1849年)7月 吉田松陰(よしだしょういん)が下関周辺を視察。巌流島に上陸。小次郎の墓に「逝くの山に二郎平兵衛がからいどあり」と書き遺している。
明治43年(1910年)10月31日 「佐々木巌流の碑」が島に建立される。
大正10年(1921年)11月2日 斎藤茂吉(さいとうしげよし)が渡欧の途中に島へ渡り、「わが心いたく悲しみこの島に命おとしし人をしぞおもふ」など歌を三首と随筆「巌流島」を残す。その後、斎藤茂吉と菊池寛(きくちかん)が武蔵と小次郎の大論争を展開。
昭和30年(1955年)巌流島の住民が30軒になる(50軒の説あり)
昭和48年(1973年)4月 島に残っていた老人1人が島を去り、居住者ゼロ(無人島)となる。
昭和63年(1987年)10月4日 巌流島いっぱいに篝火(かがりび)を焚き、アントニオ猪木とマサ斎藤の「夜のデスマッチ」プロレス興行が行われる。
N◯K(いまや反◯テレビ局)のドラマでもロケ地で使われた模様。
10:30 、巌流島を出発。唐戸ターミナルへ戻ります。
上陸が10:00で、時間的に次の帰りの便が10:10です。その次は10:50。スケジュール的に10:50まで待つ時間がありません。滞在時間たったの10分。本当に時間が足りませんでした。写真を取りながら佐々木小次郎&宮本武蔵の銅像まで行って帰ってくるだけでも最後は駆け足でギリギリ乗船。
朝9:45のフェリーに乗ったのであれば、帰りの便は10:50がベストです。小さいお子さんがいるなら11:30がオススメ。
さらば、巌流島。
赤間神宮(壇ノ浦の戦い・平家の墓・耳なし芳一)
フェリーの帰りはデッキに立って潮風で髪をなびかせながら。(これで後ほど体調を崩します。風邪を引く。デッキに出るのは最低でも4月頃からかしら。)
唐戸ターミナル横の駐車場(後ろの柵のようなところ)の向かいに唐戸地区の歴史案内地図があったとは気づきませんでした。
初代総理大臣の伊藤博文の住居地が山口県にあるとは知らなかった。(伊藤博文は韓◯人に暗殺されました。)
奇しくもアベ総理も山口県出身で、至近距離で◯たれて、至近距離で打ったのが犯人と言われてますが、着弾の方向などから実は遠距離で打たれたみたい(wikiペディアの記述は真実ではないらしい。警察が再調査をしない、現場に総理の献花台を恒久的に作らないのが怪しすぎ。)
14番の赤間神宮(あかまじんぐう)は壇ノ浦の戦い(源氏vs平氏)で敗れた「安徳天皇」と「平家」を祀っています。
ちなみに「神社(じんじゃ)」と「神宮(じんぐう)」の呼び名の違いですが、祀られている神=祭神(さいじん:御祭神)が皇室の先祖など皇族と深い繋がりがある場合は「神宮」と呼ぶみたい。北海道神宮も「明治天皇」を祀っているため北海道神社ではなく北海道神宮なのですね。
唐戸ターミナル横には遊園地のはい!からっと横丁という遊べるスポットがありました。観覧車からの眺めも良いことでしょう。
唐戸ターミナルから車で5分もしないところに赤間神宮があります。向かいには無料の駐車場があります。
初見では竜宮城のようなイメージ。平安時代っぽいイメージかしら。
赤間神宮の御祭神は安徳(あんとく)天皇です。壇ノ浦の戦いで平家と共に亡くなられた幼い天皇です。「水の底にも都がございます」と家臣と共に入水されたとか。個人的に争いで人が亡くなるのは嫌いです。悲しいので。
壇ノ浦の戦いは平安時代の末期です(1185年)
赤間神宮の境内の案内図です。
左端から、安徳天皇の御陵(ごりょう=皇室のお墓)、平家一門の墓、耳なし芳一堂。
中央の水天門をくぐった左側に手水舎があるので汚れを落としましょう。
水天門をくぐります。
気づきました?戸には天皇家の家紋である菊の御紋が飾られています。東京の九段下にある靖国神社の菊の御紋と同じですね。
真正面の奥がご本殿(御祭神:安徳天皇)。見えているのが外拝殿。
おや?狛犬の右横に石碑がありますね。
日本神話の秘宝、三種の神器(八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)・八咫鏡(やたのかがみ))
現在の天皇陛下は、第125代「明仁(あきひと)天皇」であられますが、ここ赤間神宮には第10代「崇神(すじん)天皇」から第81代「安徳天皇」までの1276年間の間、八咫鏡が奉鎭(ほうちん)されていたとのこと。祀られていたんですね。
※ 少年ジャンプのマンガ「ブリーチ」にて、山本 元柳斎 重國の後に総隊長になった京楽春水。その彼の兄夫婦の子供である姪・伊勢七緒は副隊長。伊勢七緒の伊勢家に代々伝わる斬魄刀の名前が「神剣・八鏡剣(はっきょうけん)」。鏡のように攻撃を反射する能力を披露していましたが、おそらくネーミングは「八咫鏡」からのインスパイアかと個人的に思っちゃう(笑)
右端には、鎮守八幡宮。八幡さまが祀られております。
その横には、天神社。天神さま=菅原道真公(平安初期 845~903年)
水天供養塔・耳なし芳一堂・平家一門の墓も見てきました。写真には残しておりません。失礼かなと感じたため。ここはチャラチャラした気分で来て良いところではないと感じました。
赤間神宮から下関を眺める。戦争は嫌ですね。個人的にも争いは好みません。駐車場には安徳天皇のモニュメントが設置されています。うーん悲しいなぁ。
平安時代の内容
飛鳥時代(538年)
↓
奈良時代(712年)
↓
平安時代(794年)
↓
鎌倉時代(1185年)
↓
室町時代(1336年)
↓
安土桃山時代(戦国)(1577年)
↓
江戸時代(1603年)
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平安の初期(845~903年)
菅原 道真(すがわらのみちざね)
天皇の下には
- 右大臣(うだいじん)
- 左大臣(さだいじん)
その右大臣に菅原道真(小さい頃から優秀。登り詰めた。)
左大臣には菅原道真を良しとしない「藤原氏」
藤原は天皇に「菅原道真は謀反を起こそうとしている」とウソを言う。
天皇がそれを真に受けて、菅原道真は都を追い出されて
大宰府(福岡県)に流されてしまう。
現在では優秀さから「学問の神様」として崇められてるのと同時に、
死後、都に悪いことが立て続けに発生したため「怨霊」と恐れられる(日本三大怨霊)
※軽く調べてみたところ「天神さま」という名称は、都に発生した災い・雷から(雷神=天神)ともとれますし、雨と水の神=農業助かるとしての良い神としての雷神=天神の意味もあるみたい。
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平安の中期(903~940年)
平 将門(たいらのまさかど)
都は 京都。
天皇制。
貴族は藤原氏。藤原は朝廷の仕事を独占。
地方の統治は国司(常陸国司ひたちこくし)という朝廷から派遣された役人が担当。
国司はやりたい放題。
貴族とは別の団体「武士(ぶし)」が増える。
- 武士団体1:源氏(げんじ)ルーツは天皇家
- 武士団体2:平氏(へいし)ルーツは桓武天皇
将門は都で仕事。( 主人は藤原忠平 )
父が倒れ実家に戻ってくると、父の領地が叔父に横領されていた。
叔父:平 良兼
叔父:平 良正
叔父:平 国香
↓
源衛(みなもとのまもる)の娘3人の何れかを妻に望んでいたが、
3人が3人とも叔父へ嫁いでしまう。
↓
将門が怒る、国香と娘3人を殺害。
↓
叔父:平 良兼 怒る
叔父:平 良正 怒る
叔父:平 国香× 息子:平 貞守(さだもり) 怒る
源衛 怒る
将門に戦いを挑むも大敗。
↓
良兼は、まだまだ将門にからむ。
↓
将門はかつての主人の藤原忠平に、良兼/貞守からの暴力を訴える。
良兼/貞守が逮捕される。
その後、良兼が病死、貞守は雲隠れ。
↓
将門の名声が関東に広がる。
↓
政治は藤原氏が独占、地方の統治は国司が鬼のような税
民は苦しめられるのは昔から同じ。変わらない。
↓
藤原氏の中でも毛並みが違う藤原玄明(ふじわらのはるあき)が、
「税が高すぎ。民から集めた税は朝廷に収めないよ。民に還元する」
と行動したため、
役人(常陸国司ひたちこくし)に追われる。
↓
将門、玄明をかくまう。
実は将門も、
- 朝廷を牛耳る藤原氏
- やりたい放題で民を苦しめる常陸国司
に不満を持っていた。
↓
常陸国司の「玄明を引き渡しせよ」を将門は無視。
↓
開戦!( 将門の乱 )
将門、民衆を味方に付ける
将門、快進撃。
↓
朝廷軍がボコボコにされる。将門は強い。
朝廷は、
「将門を打ち取ったら、誰でも貴族にしてやる!」
を発令。
↓
雲隠れしていた、平 貞守(たいらのさだもり)が将門討伐へ。
俵 藤太(たわらのとうた)も将門討伐に参加。
このタッグが将門を打ち取る。
↓
無念の死:将門は日本三大怨霊の一つに。(崇徳天皇・菅原道真)
↓
平貞守(たいらのさだもり)の子孫、
178年後に、
平清盛(たいらのきよもり)が出現( 平安時代の後期 )
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平安の後期( ~ 1185年)
保元の乱(ほうげんのらん)
後白河天皇(ごしらかわてんのう)
VS
崇徳上皇(すとくじょうこう)
の権力争いからのマジ戦争(権力争い以外にいろいろ要因はあったみたい)
「天皇」とは「現在の天皇」、「上皇」とは「太上天皇(だいじょうてんのう)」の略で天皇の位を譲位(譲り渡した)天皇のこと。
72代 白河天皇(鳥羽天皇の叔父)
73代 堀河天皇(白河天皇の子)
74代 鳥羽天皇(堀河天皇の子)
75代 崇徳天皇(鳥羽天皇の子(長男)?白河天皇の子?)
崇徳天皇には重仁親王という子がいたが天皇になれず
鳥羽天皇からの圧力で近衛天皇に譲位
76代 近衛天皇(鳥羽天皇の子(腹違い))
77代 後白河天皇(鳥羽天皇の子(四男))
平 清盛(きよもり)・源 義朝(よしとも)は、後白河天皇に付く。
後白河天皇派の勝利。
(二人ともに、親戚が崇徳上皇に付いてしまった。親戚を泣く泣く倒す。)
※崇徳天皇は讃岐に流され、日本三大怨霊の一つとなる。
↓
恩賞が、
平清盛(きよもり):多い
源義朝(よしとも):少ない=不満
これが → 平治の乱(へいじのらん) に 続く。
↓
恩賞の違いの理由。
保元の乱の前の、2人の階級
平清盛:4位
源義朝:5位
保元の乱の功績は、源義朝(よしとも)が大きかったが、
階級の差をひっくり返すような恩賞はあり得ない。
源義朝の恩賞が平清盛より少ないのは当たり前。
↓
平治の乱(へいじのらん)
平氏 vs 源氏( 恩賞逆恨み )
平清盛(きよもり) が 勝利。
源 義朝:策略で死亡
:長男:処刑
:次男:戦死
:三男(本妻との長男):源 頼朝(よりとも)→伊豆へ島流し
:九男:源 義経(よしつね)→寺。
↓
平清盛(きよもり)→ 貴族の頂点「太政大臣だじょうだいじん」に。
源氏 → すっかり力を失う。
↓
平氏が関東などの、地元武士の土地を押収し始める。
地元武士 → 不満
朝廷内も平氏が要職を独占、チカラを付ける。それらも武士から不満の声が発生。
後白河法皇の大三皇子の「以仁王(もちひとおう)」も不遇扱いで不満が爆発。
以仁王は源氏に書状を送るも失敗。自害。
源 頼朝(よりとも)は地元武士と結託。
源 義経(よしつね)もそれに参加。
↓
1180年 平氏と源氏の戦いが始まる。
源氏が優勢。平氏をどんどん西に追いやる。
1181年 平清盛(きよもり)病死により、三男 平宗盛(むねもり)が引き継ぐ。
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平安時代 末期 (1185年)
壇ノ浦の戦い (1185年)
1185年3月24日正午ごろ 開戦。
壇ノ浦 = 現在の海門橋あたり
源 義経(よしつね)の水軍
VS
四男 平 知盛(とももり)
源義経の八艘飛び( はっそうとび )
↓
平氏の負け、
いかり・鎧などの重りを身に着け入水。
平清盛(きよもり)の血筋は処刑。他の平氏はひっそりと生きる。
源義経(よしつね)が平家の捕虜を連れて帰るも、
源頼朝(よりとも)の怒りを買うというゴタゴタで、
その後、源義経(よしつね)自害。
「平安時代」が終わる。
↓
「鎌倉幕府」が開く。鎌倉時代がスタート。
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結局は、
平将門(まさかど)は、
「良い行いをしたかった人」
・悪政な世を世直ししたかった。
・民を苦しめる者を排除したかった
・自分が新皇となって良い時代を作りたかった
↑
(朝廷から見たら謀反ですが、謀反を起こさなければならないほど
悪い時代を作った朝廷(天皇:操った藤原氏)が悪い。)
平清盛(きよもり)は、
「過去の悪政を学ばなかった人」
・朝廷入り → 頂点に登り詰めた、が
・かつて朝廷を牛耳っていた藤原氏と全く同じことをしたみたい
・各所から不満が爆発
・結果、源氏に打たれてしまった。
源義朝(よりとも)は、
「恩賞が少ない」という理由で平氏を逆恨みした人たち。
(実は自分達の階級が低かっただけ)
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勝った源氏はそのまま鎌倉幕府を開く。(鎌倉時代)
1代・2代・3代将軍までは源氏だったが、
北条の策略により滅亡。
飛鳥 → 奈良 → 平安 → 鎌倉 → 室町 → 安土桃山(戦国)→ 江戸
538 712? 794? 1185 1336 1577 1603?
平家物語
( 平安時代末期に起こった事実の軍記物語 )作者は不明。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵におなじ。
とはあるが、
結局は早いか遅いかの違いであり、
平氏が平安時代で滅び、
源氏も鎌倉時代で滅びた。
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とは言っても、「平氏」も「源氏」もただの苗字ではなく、
同じ天皇・皇族がルーツの血筋を持つ「血縁グループ」の総称らしい。
なので、「源氏も鎌倉時代で滅びた。」という表現は正確には正しくなく、
「他の姓」を持った「源氏の血筋」は普通に現代も生き続けています。
それは平氏・源氏も同じですね。
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皇族は人数が増えすぎては困ります。財政を圧迫するので。
増えすぎた場合は、皇族から離脱(または出家)させて「姓」を与えて、
臣下(しんか:天皇に仕える者)とさせます。
これを「臣籍降下(しんせきこうか)」と呼びます。
様々な天皇がいて、それらの皇族からたくさんの「臣籍降下」が発生したわけですが、
それぞれの天皇・皇族の「臣籍降下」のことを「〇氏(血縁一族の意味?)」と呼ぶらしい。
ちなみに江戸時代(明治初期?)まで続いた「摂政」「関白」の位には、
代々「藤氏」のグループが就くのが決まりでした。
近衛家・鷹司家・九条家・一条家・二条家
また、藤氏(藤原)・平氏・源氏・橘氏の4つを
「源平藤橘」(四姓)と総称されているとか。
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そうそう、「耳なし芳一」ですが怪談話のため「芳一(ほういち)」は実在はしないという説が大きいのかな。ただ、怪談話の元になるような「盲目の琵琶法師」は実在したらしいです。
ちなみに耳なし芳一がなぜ関わってくるかといいますと、壇ノ浦の戦いの後に「平家の亡霊」が夜な夜な現れて、ホウイチにビワを演奏させて平家を供養させておりましたがその度にホウイチは疲れていきます。で、和尚がお経をホウイチの身体に書き連ねてホウイチを連れて行かれないようにしたのですが、耳の部分を書き忘れてしまったため耳の部分だけ亡霊に見つかってしまいちぎられて持っていかれたというお話です。
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朝廷(ちょうてい)と幕府(ばくふ)
現在の日本の政治は、国会で法律を作って(その権利を立法権)、内閣で法律を元にああだこうだと実際にやってます(行政権)内閣の長は内閣総理大臣。
現在の天皇陛下は、日本の象徴という存在で全日本国民から敬われる役割です。
天皇の起源としては、紀元前600年からスタートします。
日本の政治は、天皇陛下が居られる朝廷で執り行われておりました。天皇陛下と天皇家と貴族(平安時代なら藤原氏で場所は京都府、さらに前時代なら奈良県。)が中心。
で、平安時代がターニングポイントになります。
平安時代は 794年 ~ 1185年 の390年間ですが、900年辺りに源氏と平氏という武士が現れます。(源氏も平氏もルーツは天皇家/桓武天皇ですが、天皇家と武士は別々の存在)
で、政治を行うのが「天皇陛下+貴族の藤原氏」から「平家」となり、平安時代末期に壇ノ浦の戦いで平家が滅亡。
鎌倉時代に入ると天皇(朝廷)ではなく、源頼朝という「武士」が政治を行います。「幕府(鎌倉幕府)」の誕生(場所:神奈川県)。幕府とは「武士が政治を行う仕組み」の意味。幕府の長は「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん:将軍さま)」ちなみに征夷大将軍は天皇から任命されることで決定します。征夷大将軍がいなかったら幕府とは呼ばない。
鎌倉時代は 1185年 ~ 1336年 の 151年間。
鎌倉幕府の将軍(征夷大将軍)は、
1代~3代:源頼朝→源頼家→源実朝(で、北条家に滅ぼされる)
4代~5代:藤原頼経→藤原頼嗣
6代~9代:天皇家の方々(天皇家の方々が将軍となり幕府で政治を行っていたとはビックリ。授業で習っていたはずですが記憶にないので2回ビックリ(笑))
※ 北条家が将軍になっていないのは、任命権のある天皇から拒絶されたためという説があります。
※ 御家人よりも北条家の御内人が優遇されたこと、元寇で恩賞が出せなかったこと、貨幣制度で御家人が貧乏になったこと、最後に後醍醐天皇らが鎌倉幕府を滅ぼします。
室町時代でも基本的に幕府で政治が行われます。「室町幕府」です。(場所:京都府)
室町時代は 1336年 ~ 1573年 の 237年間。
室町幕府の将軍(征夷大将軍)は、
1代~15代:足利家(あしかがけ)の皆さん。
室町時代が終わったキッカケは、足利家が2分割して争った挙げ句(応仁の乱)、足利家以外の家がチカラを付けていき、最後は織田信長によって15代将軍が京都から追放されたため(下剋上)。ついでに収入源確保がヘタだったのも理由の一つらしい。
安土桃山時代(戦国時代)には幕府がありません、というか幕府とは呼びません。
一応、織田信長(桶狭間の戦い後、明智くんに本能寺の変でやられる)・豊臣秀吉(関ヶ原の戦いにより豊臣家2代で終了)が天下統一を果たしましたが征夷大将軍ではなかったので。
二人の共通した役職に「関白(かんぱく)」があります。関白は天皇を直接補佐する役職で征夷大将軍よりもずっと位が上。天皇家に関わる人がなる役職。家が田舎武者の人間がなれる職業ではない。関白=天皇に近い、と考えると簡単でしょうか。
信長の「天皇に与えられる」という決め方の征夷大将軍が気に入らないという理由もトガッてますねぇ(笑)
江戸時代はご存知、「江戸幕府(場所:東京都)」。
幕府ということは、徳川十五代の方々は「征夷大将軍」ということ。
下関戦争、日本が近代化に流れたキッカケ?
赤間神宮の近くにある郵便ポスト。青い海をイメージして赤くないポスト。フグが可愛い。
(下関市メインキャラクター:せきまる)
赤間神宮から関門橋を超えてすぐのところが、壇ノ浦の戦いの石碑と下関戦争の跡地。
関門トンネル「人用」。福岡県と山口県の行き来はクルマなら関門橋、人や自転車・50ccバイクスクーターであればこの「人道トンネル」で。駐車場もここ。
クルマから降り横断歩道を渡り海の方へ歩きます。
壇ノ浦の戦いの銅像が2体。
逆光なので、
フォトショップにてシャドウを明るく。
こちらが、源 義経(みなもとのよしつね)
船と船をピョンピョン飛んで移動して攻撃を回避したことから「八艘飛び(はっそうとび)」という言葉が生まれる。尚、RPGゲームソフト「女神転生」ではヨシツネというキャラの特殊技で「ハッソウトビ(8回連続攻撃)」が設定されていたりします(笑)
そして右側の銅像が、平 知盛(たいらのとももり)
担いでいる錨(いかり)は武器ではありません。負け戦となり捕虜として捉えられた後に処刑されるくらいなら「錨を体に巻き付け入水」で自ら命を絶つ、ということなんですね。悲しい。
で、二人の武将の横には大砲が。
江戸時代の末期
江戸時代は1603年 ~ 1867年の265年間。その末期である1853年にアメリカからペリーが軍艦で来航して来て以来、「開国せよ」と各国が迫ってきます。日本の政府である「江戸幕府」は外国勢力に屈して「開国」。日米和親条約を結んで鎖国が終了してしまった。
「外国の侵略を許すなー!日本は日本のモノだ!」と、「外国を打ち払え」という考え方である「攘夷(じょうい)」を望む声も多々あった。で、大老の井伊直弼(いいなおすけ)らの開国派が「お前らうるさい」と「安政の大獄」で開国を良しとしない「攘夷派」を弾圧した。その結果として井伊直弼は攘夷派によって1860年に暗殺される(桜田門外の変)。
で、「幕府なんてダメだよなー」「やっぱり天皇じゃん」「そして攘夷じゃん!」という人たちが集まる。「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」天皇を敬って外国を打ち払え!という考えにフラグが立つ。
で、1863年に「尊皇攘夷」をスタンスに持つ人たちがやらかしました。
それが「下関戦争(しものせきせんそう)」で、下関を通っていたフランス・オランダ・アメリカの船を長州藩(山口県)が砲撃したのは良かったが、後にフランス・イギリス・オランダ・アメリカの艦隊にボコボコに仕返しされてしまう。圧倒的な武力の差を「これでもかっ!」というほど痛感させられる事件(別名:四国艦隊下関砲撃事件)。
で、長州は「武力では海外諸国に到底太刀打ちできない。よって攘夷は残念ながら不可能。世界は強い。よって強い日本を作らないとダメだ。海外を追っ払うのではなく逆に海外の技術を受け入れて強くならねば。で、信頼を置けない幕府はやっつけよう(倒幕)幕府の幕政改革の中身を見たけど今の幕府では強い日本は作れん。お?薩摩藩(鹿児島県)と土佐藩(高知県)も一緒にやるか?」
で、なんだかんだで天皇の権威が復活し、新政府軍が結成、戊辰戦争が勃発。鳥羽・伏見の戦い → 江戸城無血開城 → 箱館戦争で終戦。幕府滅亡。江戸時代が終了。散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする明治がスタート。
で、るろうに剣心に出てくる相楽左之助(さがらさのすけ)の隊長、赤報隊隊長相良総三(さがらそうぞう)。実際にいた人物で実際にあった隊で、実際に新政府に偽官軍扱いされて処刑されてしまう。(ただ、隊の素行が悪かったという話もあります。しかしそれでも「ニセ官軍」扱いはダメだろ新政府よ。なにやってんの。)
ま、
長々書きましたが下関は、
平安時代を語る上では外せない場所であり、
近代日本の礎(いしずえ)となったスタート地点と言っても過言ではない場所。ターニングポイントとも言えますね。
で、大砲にはスピーカーが付いておりまして、100円を入れると20秒後に5秒間隔で砲撃音が「ドーン!」と3発分が響き渡ります。大砲の先っちょから「ケムリ」が出る演出付きです(笑)by下関市観光施設課(TEL : 0832-31-1838)
スピーカーの品質に定評のあるアメリカBOSE社製スピーカー。特に小型スピーカーで低音をキレイに再生させる技術がすごいメーカー。
私のPCスピーカーもBOSE製です。(1万円ちょっとのPCスピーカーで低音はもちろん中音・高温もキレイに鳴らせるのは国内外メーカー合わせてBOSEだけです。絶対の信頼性。)
丁度船が通りかかっていました。下関戦争ではこんなイメージだったのかしら。
下関の事件が終了すると、戦利品として大砲は全て外国に持ち去られてしまったとのことでしたが、パリ・アンヴァリッド軍事博物館にずらーっと並んでいたのを日本人作家が発見して、その後「本物」が日本に一時的に里帰り。その際に「精巧なレプリカ(模造品)」が作成されここ下関に並んでいるという経緯。
仮に「精巧」のレベルが本物とまったく同じであれば、タマと火薬さえあればドカンと一発が可能なのでしょうが、どうなのかしら・・・?
思ったことは、北海道は本当に日本史においてあまり登場してこないんだなぁということ。そして九州は歴史の宝庫か!というくらいスゴイ出来事が発生していたということ。地元に住んでいる学生はさぞ歴史に興味を惹かれたことでしょう。羨ましいです。(え?アイヌ?あれは確かに北海道に住んでいましたけど、日本だけにしか存在しない人々ではございません。ロシアにもいた。アイヌは日本の先住民じゃございません。でウポポイは毎年15億円の経費が血税で賄われています。で、伝統もクソもないアイヌ創作ダンスや、製鉄技術が無いのにアイヌ製のナイフとか。ふざけんな。今すぐ潰せ。見るに値しないので修学旅行生は来なくていいです。アイヌ利権に関わらないで。北海道の歴史を感じるなら札幌・函館・小樽で十分かと。最北の地の稚内も良いかも。終戦したのにそれを無視してロシアが騙し討ち。この事件がなければ日本の最北の地は稚内ではなく樺太です。真岡郵便電信局事件について教師の方々は是非とも日本人生徒に教えてあげてください。)
華丸が愛するうどん店。もりべえの牛すじうどん。
日本史に触れることができて大満足。日本人なら一度はおいで、そんな感じでした。
で、昼食を食べに行橋市まで移動です。山口県 → 福岡県北九州市 → 行橋市(いくはしし)
関門橋を渡ります。
40分ほど走らせると行橋市に到着。
はい。もりべえ。(駐車場はウラです。)
なんしようと?で過去に3回ほど出演しているうどん屋さん。博多華丸がここのうどんをとても愛していることで有名で50歳を超えてもつゆまで全て平らげちゃう(笑)。味付けは北九州は小倉うどんと同じ甘いつゆ。
で、肉うどんとゴボウ天とお稲荷さん。すべて美味しかったです!!特にうどんが美味しい!!こんなに美味しいうどんを食べたのは初めて!!
華丸が座っていた位置に座って記念撮影(笑)
丸亀製麺をうまいと思ってましたけど、軽く上を行く味付け。毎週食べたい味。オススメです。そりゃ華丸がつゆまでたいらげるはずだ。
テレビで見たことある女将さんに「博多華丸が好きでなんしようとを見て、北海道から来ました」と伝えると、嬉しそうに「本当ですか!?」と言い、調理場で作業していた旦那さんを呼んで「北海道から来たんですって」と(笑)旦那さんも「いやー、ありがとうございます!」と(笑)北海道人が福岡市中央区から1時間の北九州の更に奥の行橋市のうどん屋まで来るのはそうとう珍しいようで(笑)
レジ前で食べていた地元お姉ちゃん方も「おぉー」という微笑ましい表情で私を見てました。
嬉しいリアクション、どうもありがとうございました♪
で、もりべえから徒歩20秒の大鶴酒店。こちらもなんしようとのロケ地。
大吉先生が大絶賛の「宮崎スティック(鳥の炭火焼)」と「いぶりガッキー(秋田のいぶりがっこを乾燥させてスティックに)」が欲しい。
テレビにも出ていた店主さんが出てきて(あー!見たことある人だ!!)「なんしようとを見て、北海道から来ました」「北海道から来た方は2人目です(笑)」と。どうやらこちらに親戚のいる北海道人が来ていたらしい。親戚など無関係な北海道人であれば私が1人目かしら(笑)
で、「そちらにありますよ~」と。とあった!!宮崎スティックといぶりガッキー。
「ここの名物でもなんでもないんですけどね(笑)」と店主さんも笑っていました。どうやらやはり人気らしい。
時間が許せば角打ちで日本酒を嗜みたかった。うーん、残念。
本当にビール(発泡酒)に良く合う味付け。炭火の香ばしい感じ。
このブログ下部にリンクを貼っていますので食べてみたい人はどうぞ。
いぶりがっこを乾燥スティック状にしたもの。
大分県入り、全国八幡社の総本宮、宇佐神宮。
美味しいうどんを食べたら温泉天国・大分県に向かいます!
その途中で、これまたロケ地のカラアゲのお店に立ち寄ることに。
うーん、屋根瓦。日本的で好き。
背の高い建物がなく、畑なので見晴らしが良いですねぇ。
からあげ聖林(はりうっど)。ロケ地だったんですよねぇ。
店員さんは疲れていたのでしょうか。愛想のあの字もありません(笑)
味も普通、というか「からあげ」はどこで食べても普通に美味しいものかと。
大分県に入りました!!
水曜どうでしょうで有名?になった「カントリーサイン」
ここ大分県中津市(なかつし)の絵柄は一万円札のモデルにもなった「福沢諭吉(ふくざわゆきち)」です。ただ、諭吉さんの後ろの「塔」はなんだろう??
全国の八幡社の総本宮、
伊勢神宮に次ぐ歴史ある神社の宇佐神宮(うさじんぐう)に到着。歴代天皇陛下もお参りされておられるとか。
御祭神は、以下の通りです。
- 八幡大神(はちまんおおかみ・応神天皇の御神霊:ほんだわけのみこと)
- 比賣大神(ひめおおかみ(八幡大神が現れる以前の古い神様):たぎつひめのみこと・いちきしまひめのみこと・たぎりひめのみこと)
- 神功皇后(応神天皇の御母君:おきながたらしひめのみこと)
宇佐神宮が建てられたのは平安時代の前、「奈良時代」の725年です。
宇佐神宮の境内は本当に広くて。隅から隅までゆっくり見るなら2時間は欲しいところ。
日本国旗が大変美しいですねぇ。
看板と手水舎。
宇佐神宮 境内図
↓ クリックで拡大します。
駐車場は地図の下部。
今回のルートは、下の図より
駐車場 → 表参道大鳥居 → 手水舎 → 下宮 → 若宮神社 → 西大門 → 上宮 → 授与所 → 亀山神社 → 御霊水 → 能楽殿 → 手水舎 → 八坂神社 → 駐車場
厄年の表。厄除祈願を宇佐神宮で行うことができます。
昔は神社の中にお寺があるところは多かったみたい。
皇族の方はこちらで馬(クルマ)から降りる?
左は上宮への道、右は下宮への道。
下宮参らにゃ片参り。まずは下宮へ行きましょう。
下宮の説明書き
下宮。上宮の各御殿と御祭神と同じです。
この一之御殿・二之御殿・三之御殿以外に、八幡大神を最初に発見したと言われる大神比義(おおがのひぎ)を祀った大神祖神社もあります。
下宮経由で上宮方面へ。ちなみに右側の道はモノレールで上宮に行ける道です。
若宮神社。災難除けのご利益があります。
- 大鷦鷯命(おおささぎのみこと)
- 大葉枝皇子(おおばえのみこ)
- 小葉枝皇子(こばえのみこ)
- 隼総別皇子(はやぶさわけのみこ)
- 雌鳥皇女(めどりのひめみこ)
西大門は改修工事中。
天皇陛下より幣帛料(へいはくりょう)が捧げられました。
ぱぱっと調べたところ、幣帛の「へい」と「はく」は同じ意味?で、「布」を意味するらしい。昔は布は大変貴重なモノで神に捧げるにふさわしい供物だったとのこと。
現代では、布の替わりに「お金(貨幣)」が紙に包まれてお供えされます。(でもおそらく宇佐神宮といった重大な神社の場合、昔の習わしに従って高級な反物なども納められているのでしょうね。)
宇佐神宮の御祭神の説明。
左から一之御殿、二之御殿、三之御殿。
御祭神の「比賣大神」が初めて現れたというのが御許山(おもとやま)らしいです。山には大元神社があります。
こちらが2023年3月の宇佐神宮で授与されるお守り一覧。その1
お守り一覧。その2
身上安全守を従妹の子供たちへ。母には厄除開運守を。
お守り一覧。その3
自分用に金運開運守を購入(笑)
続いて亀山神社。
御祭神は、大山積命(おおやまづみのみこと)。八幡大神様が鎮座する小椋山を守護する山神・地主神とのことです。
ボランティアガイドさん曰く、上記の理由だったからかすべてお参りできないならせめてここだけお参りすることですべてのご利益を得られるとか。(たしかそんなことを説明してくれたような。)
御霊水にやってきました。
八幡大神様(写真左のわらべ)がこの世に初めて現れた聖地とされています。右側が下宮の神社に祀られている大神比義とされています。
3つの井戸風の霊泉があります。
フタを開けると、
このような感じ。現在も3つそれぞれ水が湧いているとのことです。
水は自由に汲めるとのことですが水質は飲用に適さないため、神棚に飾るなど用に使っていただければとのこと。
ひし形池。うーん平安時代っぽい橋が魅力的。
能楽殿。
池のほとりに立てられていた説明書き。
大江匡房(おおえのまさふさ)と八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)。
池内法華三昧堂跡(いけのうちほっけざんまいどう)
養蚕神社(ようさんじんじゃ)と八坂神社(やさかじんじゃ)が一つになっています。
養蚕神社の御祭神は天照大神(アマテラスオオミカミ:女神、姉)、八坂神社の御祭神は須佐之男命(スサオノノミコト:男神、弟)
須佐之男命は別名を牛頭天王と称し、疫病鎮静のために創建された京都の八坂神社と共に、疫厄消除の御神徳で有名とのこと。
清々しく、神聖な場所でした。
阿と吽の宇佐神宮の狛犬。
宇佐神宮の仲見世通り。
宇佐神宮には2種類のおみくじがありまして、
八徳神おみくじには、
金ピカのミニ神様付きです。北辰様が当たりました。
正式名称?は、北辰妙見尊星王(ほくしんみょうけんそんじょうおう)
別名を、天御中主命外(あめのみなかぬしのみことほか)と呼ぶらしい。御加護は幸運。
日本は宗教がいろいろあり選択の自由がありますけど、
日本古来の宗教は神道(しんとう)です。信仰の対象は八百万の神。
ただ、神道を感じる時を真っ先に思い浮かべるのは「神社の初詣」、次は「パワースポット巡り・参拝」、「神棚」、「お守り」「御朱印」「七五三」くらい。
神道の挙式(三々九度のアレ)が少なくなり、キリスト教の挙式でウェディングでチャペってるのが多くなりました。
神道の葬儀に立ち会ったことがありません。葬儀はインドの仏教で戒名でお線香でお焼香でお仏壇。あれ?神道に仏壇はあるのか?
こちらが宇佐神宮で授与していただいた金運開運御守。
3つ並んだマークは、上から天皇家の紋章である「十六弁八重菊紋」(応神天皇/八幡大神)、比売大神の「尾長三つ巴紋」、神功皇后の「五七桐紋」
見る角度によって、「金運開運」という文字になります。
裏面には「お神札(おふだ)」または「神札(しんさつ)」が。
宇佐神宮御守護
鬼滅の刃、八幡竈門神社(はちまんかまどじんじゃ)
宇佐神宮を後にして、今度は八幡竈門神社(はちまんかまどじんじゃ)に向かいます。
のどかな風景ですなぁ。
別府方面へ。
杵築城を見たかったのですが時間が押しているので泣く泣く後に。
山の中に入ります。
スゴイ断崖。
イニシャルDにて、FC vs 死神GTRで初めて見た緊急待避所。
海が見えてきました。
で、脇道を登っていきます。
はい、八幡竈門神社。
こちらが「鬼滅の刃」の「技」のモチーフになった神社。
御祭神は、36神も。全国的にも珍しい。
そして、鬼が造った99段の石段もスポットの一つ。
拝殿には「絵」が飾られていて、
「鬼滅の刃」の竈門炭治郎の「技」のモチーフが、
拝殿の天井の水神様の絵。
天井の水神様。
神社から海が見渡せるのが八幡竈門神社の良いところ。
1日目に福岡で立ち寄った「宝満宮竈門神社」も「竈門」ですね。
神楽殿。かまど神楽が大晦日から元旦にかけて奉納されるとのこと。
機雷(きらい)と馬。
ここの授与所のお姉さんはとても感じが良い大分人でした(笑)
ありがとうございます。
迫力のある水神様の運気上昇御守カードを授かりました。
由布院温泉(ゆふいんおんせん)の束ノ間の湯(つかのまのゆ)
由布岳は本当に大きい山でした。圧巻。
「ゆふいん」は漢字で由布院とのこと。温泉も由布院温泉です。観光ガイドでは「湯布院温泉」らしい。
由布院温泉の住所は、由布市由布院町。
で、本日の日帰り温泉。「束ノ間(つかのま)」に到着。
温泉天国だから日帰り温泉も多そうなのですが、以外や以外。少ないんですよ。
夕日が由布岳を赤く染めてそれはそれは幻想的でした。
あちこちから湯けむりが。
時間が許すなら泊まりをオススメいたします。
束ノ間の館内
組み上げた源泉を冷ませてから浴場に行っているのかしら。
で、さすが温泉天国大分県、非常に良い湯をいただきました。ありがとう!
湯けむりたくさん。
日帰り温泉を堪能した後は、ゆふいん駅を目指します。
由布市を走ります。
観光地と言っても人口が多いというワケではありません。
由布市の人口は33,000人。1985年(昭和60年)の35,945人がピークで減少傾向に。
細い道を通ると、
由布院駅のカンバンを発見。
駅舎が見えました。
なかなかモダンというかレトロでオシャレな由布院駅。ステキ。
ちょっと中に入ってみます。
私は鉄道(JR)をほとんど利用したことがありません。札幌の地下鉄とバスくらいです。
よって、JRの駅のホームから遠くに続くレールを見ると「寂しさや不安」を感じてしまう小心者です(笑)
駅の名前はひらがなで「ゆふいん」なんですね。ちなみに2両編成。
駅を出ると真正面に由布岳。このロケーションも圧巻ですねぇ。
この時間だと駅前のお土産屋も閉まっちゃう。
本日のお宿は大分市内のホテル日航大分オアシスタワーという場所です。
由布院から別府・大分市へ向かうには山越えです。
山越え山道には多きな樹木が生えていないため、山を登っている感がとても強い。
こんなロケーションの山道は、北海道でもそうそうありません。ものすごく貴重なドライビングを体験できました。
願わくは、夕日がキレイな時間帯だったらサイコーだったなぁ、ということ。
ここを通るなら晴天か夕暮れがベストでしょう。夜はちょっと怖かった(笑)
街灯も無いので歩きは御免被りたいでござる。
日本の風景。永谷園のお茶漬けのカードにありそう。
どんどんヒルクライムです。大分のミツバチ族はここをホームコースにしているのかしら(笑)
無事に山越えを果たし、別府市内に。別府タワーが出迎えてくれました。
ただピンクというか紫というか。なかなかに攻めたカラーリング。
で、大分市内に入りホテルにチェックイン。
夕飯はにくの蔵銀山亭。
味は普通。
高い焼肉屋のコースだといろんな部位が出まして、焼肉屋でそんなに食べたことが無い私としては、
焼き方などもようわからんでした(笑)わからん時はわかっている人に焼いてもらうオーダーしてもらうに限る。
この日の夜、大分はとても寒くて、体調を崩してしまいました。オーマイガー。
大分日航ホテル。部屋はとても気に入ったのですが、予約した部屋が喫煙しかなくタバコ臭さと風邪の頭痛のダブルパンチで苦しみながら眠りにつきます。
福岡大分旅行3日目のまとめ
¥ 500
宮崎スティック。宮崎地鶏を炭火で調理したモノを真空パックでいつでも香ばしく食べられる鶏肉です。
なんしようと?で大吉先生が「おいしい!」と絶賛したおつまみ。